【最初にこのページに来ていただいた方はコチラからお読みください】
昭和20年8月11日、私たちの住む久留市が空襲に遭いました。
市の記録では、被災した戸数4,506戸、被災者20,023人、
死亡212人、負傷160人という大惨事でありました。
爆撃を受けたのは11日の午前10時20分ころ。
米軍機が50機飛来し、今の城南町・六ツ門町・中央町・日吉町・
荘島町・東町・原古賀町・小頭町・本町を中心に油脂焼夷弾(ナパーム弾)
を20分間に渡り投下。町全体が炎に包まれ、灼熱地獄と化しました。
火災による急激な温度上昇で、市内に無数の竜巻が発生したということからも、
その惨状を知ることができます。
面積にして157ヘクタール(百年公園が約16個分)が被災したそうです。
空襲を受けたのは、8月11日だけではなく、翌12日午後4時30分頃に
第2回目、13日午後3時頃には3回目の空襲があったという記録が残っています。
実は、8月10日。御前会議でポツダム宣言(※)の受諾が 決定していたそうです。
その後、14日に受諾の最終決定がされ、15日に終戦を迎えました。
終戦に向かう中で起きた故郷の悲劇に、この上ないやるせなさを感じます。
この前後、米軍による空襲が激化し、全国各地で、甚大な被害を受けました。
オイは、被災地となった地域に住んでいますが、
六十数年前に、目の前の景色が大惨事に見舞われた事が
信じられないほど今は平和です。
学生時代は夏になると、平和授業が学校でありましたが、
大人になった今、自ら戦争や平和について考え学ぶ時間は
とても少なくなってしまいました。
戦後100年を迎える時、私たちはどのような世界に住み、
何をしているでしょうか。そこに平和があるとは限りません。
しかし、世界中が平和で包まれているかもしれません。
どちらの世界を作るかは、私たちの行動次第だと思います。
最後に、11日の惨状を物語る手記がありましたので
ご紹介させていただきます。
「当日の十一日夕方から屍体を運搬して来たが、続々と運んで来たのは十二日朝からであった。トラックは通行出来ないためリヤカー又は荷車で運んで来た。市は馬車を雇って運搬した。棺に納めたものは殆どなく大抵茣蓙包みで、葬儀屋は皆焼失していたから自分で車を引き家族や親戚および町内会の人達が付き添って運んで来た。葬儀場では火葬場の祭壇の前で受取り地上に置いて貰った。誰もが我先に焼いてくれと騒がれるので、到看順に焼くことにし、屍体には順々に紙製の荷札に姓名、番号を付けて如来様の前に置いて貰った。」(続
久留米市誌より)
※【ポツダム宣言】
7月26日にアメリカ、イギリス、中国の各首脳名で発布された、日本に無条件降伏を要求する共同宣言。8日にはソ連もこれに加わりました。
11日、久留米空襲の慰霊祭がとりおこなわれます。
トップページへ戻る
広告